2023.06.23

次回をお楽しみに!

大桃夢舞台開催

令和5年8月6日(日)に『大桃夢舞台』を開催いたします。

今年は4年ぶりにお客様をお招きして行います。

午後1時30分より入場無料で行いますので、

みなさまお気軽におこしください。

 

大桃夢舞台YouTubeチャンネル

上記👆をクリックしてください。

 

出演・演目予定

早乙女踊り(南会津高校郷土芸能委員会)

【早乙女踊り】
「田植踊り」として東北地方で発展してきたもので、会津では「早乙女踊り」と呼ばれている。年神様や田の神様に対し、前年の収穫への感謝と、その他の豊作への願いを込め、踊り子たちが独特の踊りを披露する。1804年頃にはすでにあり、会津盆地から徐々に伊南川沿いの各地に広まったとされます。

【南会津高校郷土芸能委員会】
平成13年度から総合的な学習の中で郷土芸能への取り組みがスタートし、南郷地域の早乙女踊りと伊南地域の小塩神楽を教わり文化祭で発表。平成14年度から郷土芸能委員会として活動が始まりました。

青柳八木節笠踊り(青柳八木節笠踊り盛り上げ隊)

【青柳八木節笠踊り】
八木節笠踊りは、昭和四十五年から二十年ほど続いた「村の芸能まつり」で上演されていました。地域興しの一環として八木節笠踊りを復活させ、地域内のイベントで演じられています。

 

田島祇園祭屋台歌舞伎 (演目:時津風日の出の松 鴫山城内の段)


※演目の画像はすべて2022年8月7日撮影したものです。

 

【田島祇園祭屋台歌舞伎】
田島祇園祭では、江戸時代から明治初期にかけて屋台上で子供歌舞伎が上演されていました。昭和25年からは10年程地元青年会により演じられていましたが、しばらくは上演が途絶えました。しかし屋台歌舞伎の伝統と子供歌舞伎の希少性から、復活させようという機運が高まり平成6年に約120年ぶりに復活し現在に至っています。

【演目:時津風日の出の松 鴫山城内の段】
田島地区にある中世の山城「鴫山城」が舞台です。
天正年間、城主の長沼盛秀が伊達政宗の軍勢に攻められ恭順の意を示すか、一戦を交えるか判断に迷うが、合戦になれば長沼家の滅亡が目に見えていると考えた諸士頭の隼人之介は、罪を一身に背負うため伊達の重臣の目の前で切腹し命をかけて伊達家と和睦をすることを嘆願するというものです。

 

時津風日出の松 鴫山城内の段(◁詳しいあらすじはコチラをクリック。)

時は戦国時代。この時代には小さな城同士でも勢力争いで、絶えず戦いを繰り返していました。この頃、会津の芦名家と仙台の伊達政宗も争いを起こし伊達が芦名を負かしました。
しかし、芦名に味方した長沼家は伊達ににらまれることになってしまいました。長沼盛秀は隣の城、久川城の河原田軍勢と領地をめぐって何度も戦いを繰り返していました。ある日、家老隼人之助の弓矢が相手の侍大将に命中し、勝ち戦になり鴫山城へ引き上げてきたところから物語は始まります。
「わはは。今日は大勝利だ!隣の城の大将を倒した」
と長沼家は勝利に酔いしれていました。しかし、隼人之助は、
「領地の争いに明け暮れ、民・百姓を苦しめる武士の生き方に嫌気がさした。武士をやめて僧侶になろうと思う。」
と妻に打ち明けます。
 おりしも伊達政宗は、芦名家に加勢した領主を後々のため攻め滅ぼしておかなければ、と鴫山城に攻め寄せてきます。伊達の大群に浮足立つ城内。鴫山城を取り囲んだ伊達の侍大将片倉小十郎はただ一人、軍師として長沼盛秀と会い
「群雄割処(ぐんゆうかっきょ)の今の世の中、ここで戦いを重ねれば上杉や佐竹の餌食になりかねない。お互いに今までの怨念を捨て、和睦することが両家にとって一番いいこと」
と説得するが、血気盛んな盛秀は聞き入れません。
「戦場にて御意得申す。(合戦で決着をつけましょう)」の片倉の言葉を聞き、
[戦いになれば長沼家の滅亡は目に見えている、芦名家に加勢したのは私がやったことで長沼盛秀は知らない事にしよう]と隼人之介は、とっさに考え、片倉を押しとどめたうえで自ら腹を切り、
「盛秀の知らないところで兵を動かし、芦名家に加勢したのは私一人の責任である、どうか私の命と引き換えに和睦を許してほしい。」と片倉と盛秀に訴えます。
片倉は命をかけて主を守ろうとする隼人之介の忠臣に感じ入り、盛秀に向かい、
「隼人之介殿を犬死にさせる気か。」
と詰め寄ります。その一言で剛毅の盛秀も和睦を受け入れます。
さらに片倉はその隼人之介に
「和睦が出来たこの上で盛秀殿を政宗公に引き合わせ、伊達家の一員として手厚くもてなす。」
と隼人之介が一番心残りだったことを約束し、この世の名残にと、隼人之介の妻と子供を呼び寄せ、別れを惜しませます。
「主従は三世の契り来世も忠義をつくしてくれよ。」と盛秀は涙ながらに詫びます。
「和睦の祝いに仕舞を一曲舞ってくれぬか。」と片倉は隼人之介を励まそうと呼びかけます。
請われた隼人之介は謡曲『弓矢八幡(ゆみやわた)』の一節を舞い、崩れるように倒れます。その隼人之介に
「主君の門出の祝いに・・・」と請われた片倉は祝いの唄の『さんさ時雨』を唄い舞います。
隼人之介の最後の台詞「めでたい、めでたい」には和睦がなったこと、武士として忠義を尽くせた事、戦で民百姓に被害が及ばなくなったこと等々、様々な想いが込められています。

 

 

「大桃の舞台」の歴史

 福島県南会津郡にはかつて、地区ごとに農民歌舞伎の一座があり、同じように農村舞台も数多く存在しました。しかし現在、南会津で現存する農村舞台で活用されているものは「大桃の舞台」を含め3つだけになっています。
 「大桃の舞台」は明治28年に再建しました。もっとも古く公演が確認されたのは1840年であり、明治20年代~30年代は地歌舞伎の盛行期でありました。昭和4年の大火以後、舞台での公演は不定期に行われる買芝居が中心となり、昭和30年代に入るとテレビの普及、娯楽の多様化により公演自体が行われなくなります。
その後、昭和45(1970)年の日本万国博覧会を契機とした、全国的な伝統文化の見直しの流れの中、国指定の重要有形民俗文化財に指定されます。しかし、座談会のような小規模な使用はあったようですが、2007年までに特に活用されずに、倉庫として利用される状況が続きました。そして、2007年から明るい未来を作るという意味を込めて、大桃夢舞台という名称で活用が再開され、現在に至ります。

 

<お問合せ>
大桃夢舞台実行委員会事務局
(南会津町振興公社伊南支局内☎ 0241-64-5711 )

 

アクセス

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